2013年6月20日木曜日

ド近眼


 こんな事を 云うのも何だが…

 僕は 極度の近視なのだが、(何年か前までは 近視の度合が進んでいたので、メガネ屋さんでは これ以上はプラスチックレンズでは見苦しいので コンタクトにした方が良いのでは…とも言われた)今 写真をやっていて ド近眼で ある意味本当に良かったと思っている。(ド近眼に 産んでくれた両親に感謝!)

 もちろん、それが写真の総てではないけれど、僕の経験からして 近眼でないとそのプリントにどの程度の細かさで写っていて 何処にピントの芯がいっているか 判別出来ないと思う。本当に 被写界深度などは 見かけ上のピントがあっている部分に過ぎず、そのピークは ある距離にしか来ていない事が判る。

 しかも、感度100のフィルムで撮った写真ともなると その現像処理にも依るかも知れないが 135では8×10、120では11×14サイズ位の引伸し倍率に プリントしても もう細か過ぎて 果たして何処まで解像しているのか 判らない時がある。(もっとも、近眼の人でなければ 何処まで解像してしまっているんだろう?と思わせられる位に そもそもプリントが見えないと思うが…)






 僕は今こうやって この記事を書いているが、iPhoneに最初から入っているメモなど あんなに文字が大きく無くていいから もっと小さくなっても広いフィールドが得られる様に 拡大・縮小機能を盛り込むか、そもそもデフォルトで 表示サイズを選択出来る様にして欲しかった。

 iPhoneは 非常に便利だと思うが(文字サイズが小さくなっても良ければ、結構広いフィールドが得られるので 一般的な webサイトも結構 閲覧出来る)それでも いちいち隅まで観るのに横方向にスクロールしたり 煩わしさや もどかしさを感じる時が有る。





↑  パソコンで観ておられて 興味の有る方は上の写真をクリックしてみて下さい。


 
 iPhoneを使い出してからというもの やはりBlogの記事を書いたり webを見たりするのには iPhoneの表示エリアは狭いので(縦方向は それなりに長いと思うが、テキスト入力などをすれば、キーパッドとして その半分近いエリアを 占拠されてしまう)、最近 無性にiPadが欲しくなってきた。何回か店頭で見ているが まだ iPadしか無かった頃は iPadに心惹かれていたが、iPad miniが出てから 普段持ち歩くには ギリギリポケットに収まりそうなサイズの コチラの方が良いのではないかと思う様になった。

 そこで最も気になったのが、この初代iPad miniが Retina Displayでは無い事。コレでは 僕のド近眼の能力を駆使して 小さなPDA端末でも 普通の人のパソコン並の事をして お金を払った分は 極力便利をさせて貰おうという意図を 貫徹出来ない。僕は自分にそういい聞かせて 次世代のiPad miniが出るまで 少し我慢してみる事にした。


 何だが話が iPhoneやiPadの話にそれてしまったが…σ(^_^;)


 とにかく フィルムカメラで撮影をしたり、それを引伸ばしてプリントすると 自分の近眼という能力を(そう、ココでは 負の要素では無くて能力)駆使する事が 多々有るので、逆に 今迄はよく見えていたのに 老眼になり 近くの細かい物が判別出来なくなった方などは 一体どうされているのだろうかと 疑問に思う。その分は 過去の経験を生かしてカバーされておられるのだろうか?。

 今は亡き 中川一夫さんが 著書『ライカの歴史』の中で focomatについて書かれていて、Leicaとfocomatのピントの精度や (プリントとは その掛け合わせ)、そもそも focomatで自分でプリントしていない人が、SummiluxとSummicronのどちらがピントが良いかといっても 詮無い事だ…と云った様なことを書かれているが(今は 高性能のフィルムスキャナーなどが あるので別の確認方法も有るかも知れないが 僕の感覚からすれば それでも 民生用のスキャナーでスキャンする位なら focomatで伸ばした方が  よく判ると思っているが…)、そこに書かれている事は本当の事だ。

 自分の身を持って focomatで一連の作業を終えて 出来上がったプリントを目を凝らして よく見てみると、本当に Leicaとは よく写るものだなぁ…と感心するし、被写体が 顔見知りだと その時 微塵も動いていない相手に感謝の念を覚えるし、何よりも そこには focomatについて書かれていた 中川一夫さんに 『正に…御意。』と敬意を払って 襟を正している自分がいるのだ。


0 件のコメント:

コメントを投稿